小学校一年生の孫浩史と久しぶりの電話。「学校楽しい。友達ができた?」「うん、クラス全員友達になったよ。」「何人と?」「41人」何の躊躇もなく、クラス全員が友達だという。特別に指導力を発揮したり、けんかの仲裁をしたりするわけではないのに、その仲間の中に浩史がいると、不思議と全体がなごやかになるという。
まだ3歳のころ、散歩に出た街角に花屋さんがあった。三色すみれの鉢植えが店先にあり、とりどりの色を競っていた。浩史は、小走りに走りより、「わあ、きれい。」「きれいだねえ。」の連発。そっと花びらに触っていとおしむ様子。小学校の予備登校日、校門の前の植え込みに這っていたげじげじを見て、「かわいい」。「帰りにも見ようね。」
生き物をいとおしむ感性が都会の喧騒の中でも自然と育っていくようすを田舎暮らしの祖父としては、貴重なものとして見守ってきた。それが、人への暖かい思いやりにも育ってくれることを念じつつ。
いま、間違いなくそれが人への連帯として育ちつつあることに、喜びを禁じえない。
ところが、今年、正月に遊びに来た浩史は、私が近所で出会う人ごとに、あいさつをしたり、近況をたずねあったりするのを見て、「おじいちゃん、みんな知ってるの。みんなとお話しするの。」と不思議な顔。聞いてみると、学校の登下校で逢った人に声を掛けられても、返事をしてはいけない。急いで離れるように、と教えられている。最近では、たとえ知っている人でも、気軽についていったり、自動車に便乗したりしてはいけない。物をもらってはいけない、とうるさく注意されるらしい。
たしかに、昨今の忌まわしい幼児や児童に対する犯罪の多発する現状では、人はすべて危険な存在であるというおそろしい刷り込みをしなくては、安全が保障できない時代になっているのかもしれない。
物の豊かさの中にあって、それゆえにその競い合いの中で心は次第に荒涼とした風景となっていく。肉親以外の誰をも信頼できない社会が現実に来てしまっていることに、われわれはどう対処したらいいのだろうか。
2005.5月 記