みんなの広場

時計の話

万代 勉 知研・岡山 会長

昭和34年3月、私の広島での学生生活は終わった。三年半お世話になった広島市東観音町の下宿ともお別れのときを迎えた。 おじさんとおばさんが、お祝いに、八丁堀のすき焼きの店でささやかなお祝いの宴を催してくださった。

私が下宿をお願いしたときは、小学一年生の兄と幼稚園の妹とふたりの幼い子供を残して、ふたりはトラックを武器に、広島県内はもちろん、下関あたりまで、輸入木材の運搬の仕事に精出されていた。

何しろ、満州からはだか一貫で引き上げて、広島の焼け跡に小さな家を建てたばかりであったから、子供にかかりきりになるような余裕は見出せなかったのだった。

私は下宿人であるとともに、家計担当者として、小さい日常の支払いなどは任されていたし、仕事で遅くなるときは、近所のラーメン屋で幼い兄妹と夕食を済ませておくことも多かった。

時計の話

こうして、過ごした大学生活の記念に、私は掛け時計を遺すことにしたのだ。当時は、まだすべてネジ巻きの振り子時計であった。1時間ごとにのどかに時を知らせてくれもした。私は、生意気にもその時計の中に、「人はパンのみによって生きるものにあらず」と書いた紙と一緒に、一個のコッペパンを入れておいた。

卒業後、母校の研究会のたびに訪れた下宿には、長いこと正確に時を刻んでいる時計とともにパンもそのままに残されていた。しかし、時の流れに、まずパンが保存に耐えられなくなって取り除かれ、近年は、時計そのものも動かなくなってしまっていたらしい。

ところが、昨年、おばさんの体調がすぐれないということで見舞いに立ち寄った。すると、居間で当時の時計が軽やかな音を響かせて、時を刻んでいるではないか。

運送会社を経営している長男、和明さんが、私の驚きに次のような話をしてくれたのだった。

実は、和明さんが、もう時代遅れだし、直しようもないから惜しいけれど捨てようという話をすると、この時計だけはどうしても捨てるわけにゆかないと、両親がそろって反対する。そして何とか直すところはないかと哀願するので、仕事の合間を縫って、広島中の時計屋を当たった結果、時計商組合の役員をしている長老が何とか直せるのではないかという話を聞き出した。

早速訪ねていったところ、彼の長老も時計を見てあきれ果て、開口一番「こんなもん直すんか」とおっしゃる。「ともかく直さんといかんのだ」というと、しばらく考えて、直るかどうかわからんが、一月預からせてくれ、という話になった。

それから一か月、「直ったぞ」という知らせにマイカーで受け取りに行くと、「お前、どうして持って帰る」「これに積んで帰ります」「冗談じゃない、俺を乗せてってくれ。俺が運んで俺が掛ける」。

こうして、私の時計は50年の歳月をなんともなかったかのように、おばさんが入院して一人家を守るおじさんのお供として、元気な振り子の音と時報を響かせてくれているのである。

2005.1月 記

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