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湖西たより

湖西たより【6】

逞しきかな ジャガイモよ

大津に移ってから、猫の額ほどの庭先を耕し、プランタ十個と合わせてミニ菜園を作っている。習い性となっていて、隣近所の花壇や芝生中心の瀟洒な庭とは縁遠い、野暮な生活空間が生まれている。

ところで、二週間前ごろからその菜園に三種類の思いも掛けないものが芽を出し始めた。

一つは、ミニトマトの芽。これは、昨年一本植えたトマトの落ちこぼれ種からだとすぐに察しが付いた。 それにしても、今年相当に土を入れ替え、追肥を混ぜたのに、よく頑張ってここに留まったものよと 愛おしくて、買ってきた苗と共に育ててやることにした。

トマト

二つ目は、ナンキン。これも二本買ってきた今年の苗のほとりに移植してやる。果たして実が生るの やら生らぬのやら。木の図体だけ大きくなってかえって失望させるたぐいかも知れない。なにしろ、今日(きょうび)の種は、だいたいVAIO技術による一代雑種だから、遺伝の法則に従えば、次世代がそのまま親の資質を受け継ぐようにはできていないと見なければならない。

さて、次からが本題。土を割ってどう考えてもジャガイモとおぼしき芽が数カ所にのぞき始めた。

家内は「似ていても別のものよ。」と宣う。私も、さすがにジャガイモを埋めた記憶も、その切れ端を捨てた覚えもない。でも、日が経つにつれて紛れもないジャガイモの姿を呈し始める。不思議をそのままにするのも気になる。ついに一本を犠牲にするつもりで根を探って驚いた。

そこにあったのは、長々と続いたジャガイモの皮だったのだ。皮にへばりついた小さな芽から、いまや青い逞しい茎になったジャガイモがすっくと立っていたのだ。自然の中ではぐくまれた命の逞しさに思わず感動させられることだった。

ジャガイモ

ところで、先日、所用で大阪にでる新快速に乗った。九時台でも常に大満員の電車は、座席は若い男女で占められていて、老いた私たちはその前で温和しく立っていた。立っていて見通しがいいので自然と座っている若者達を観察することになった。ところが、見ているに従って、乗り込んだときに漠然と感じた車両全体のけだるさが、座っている若者のひとりひとりが発散するけだるさの総和であることに思い至ったのだ。ある者は眠りこけ、ある者は視点も定まらず放心状態にある。若者特有の脂ぎった生気も、乙女らしいさわやかな色気も見えない。彼ら彼女らは、これから一日の生業をどう果たそうとするのだろうか。今日一日を生き生きと過ごせそうにない若者達に私たちは何が期待できるのだろうか。

臼井洋輔先生の近著「古代ビーズ再現」を読んでいると、あの文明からもっとも遠い存在と思われる。

西アフリカガーナの首都アクラでも文明のもたらす弊害が国全体を覆い、ポンコツ自動車による遅まきの疑似近代化が急速に進み、持てる者と持たざるものとの格差が、国全体を疲弊に導いているという。素朴なアフリカは幻想であり文明の収奪のかげで、精神の荒廃が急速に広かっているという。

ニートが広がり、優しさと連帯を失った若者が確たる希望と活力を持たなくなったとき、(それはもう予兆でなく足もとの現実である)先にあるのは遙かなる衰退への道しかないだろう。実業を他国に頼り、虚業のみで日本を支えることができるのであろうか。

土の持つ力を信じ、大きくなろうとしているわが野菜たちの逞しさを見ながら母国、ひいては「ヒト」の行く末をつい慮(おもんばか)ってしまうのである。

2007年5月30日 記

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