みんなの広場
湖西たより

湖西たより【5】

禍福の一日

3月3日、「神戸薬師寺21世紀まほろば塾」に参加。この日はまさに 「禍福はあざなえる縄のごとし」の一日だった。

いつも満員の新快速に、運よく座れる。しかし、次がいけない。会場は新神戸駅に直結した「神戸オリエンタルホテル」なので、直感的に神戸駅からすぐ連絡があると思いこむ。地下鉄に乗れば、一駅、そのことだけが頭にあって、神戸高速鉄道がこれに違いないと地下街を北へ歩く。

ところが着いてみると、下図のような私鉄の寄せ集めの駅。目指す新神戸駅などどこにもない。では、神戸新交通かと右往左往してみたが、これはどうもポートアイランドへ行く路線みたい。後は、神戸市営線、これが2系統あるらしいが、今度は乗り場が見つからない。

万策尽きて、地上に出て駅方角へ逆戻りしつつ、案内所を探したところ、あった。神戸交通案内所。案内のおばさんが気の毒がってわざわざ路上に出て、方角を指し示しながら説明してくれるところによると、神戸から新神戸へは直通の路線はない。三宮から乗り換えるのが常道とのこと。つまり、あえてここからならば北へ15分ほど歩いて、「大倉山」から地下鉄に乗る以外にない、と。

神戸路線図

大倉山までテクって乗ると、次の次が三宮。なんだ、ここからなら一駅だ。いつもなら慎重に「駅すぱーと」で検索するのに、新神戸に一番近いのは神戸という安易な思いこみで1時間近いロスと5000歩を越えるエネルギーの浪費を生んだ訳だ。

そういえは、いつか、有馬温泉へ行ったときは三宮から乗ったっけ。後から気の付く…何とか。何とか会場に着いたら、ちょうど入場開始。うまいこと聞きやすい席は確保。

しかし、昼飯がまだだ。急いで軽食コーナーにゆくと、カウンターにケーキが一切れ。「これだけ残っています。」かくして、5時まで食わずをわずらうことは間一髪避けられる。幸せ。

陳舜臣さんと薬師寺管長安田暎胤さんの対談は、「中国古典に学ぶまほろばの心」。陳さんの杖にすがりながらの登場には、智に生きる人の宿業のようなものを覚える。論語の忠恕から仏教の空への展開、人間至上主義の儒教と生きとし生けるものとともにあろうとする仏教の違い、異民族の中での説得と、単一民族の中での阿吽(あうん)の分かり合いという日中間の理解への道筋の違いなど、碩学の話に納得させられること多い。

次の山田法胤さんの「花会式」の解説は抜群にうまい。右左の聴衆に平等に語りかけながら、ジョークを交え花会式と東大寺のお水取りの異動を説き進められる。修二会が東大寺では、生の根源である「水」を得る儀式に、薬師寺では仏に花を捧げる花会式になったこと、両寺がともに死者のための鎮魂よりも、生きとし生けるものの心身安楽を願い、鎮護国家を祈る場として今にあることを説かれる。

神戸路線図

われわれはともすると、寺院は、葬式のためにあると思ってしまうが、荒廃の極みを見せ始めたこの世で、お寺が積極的に心の救済と衆生の善導に立ち上がるべき時ではなかろうか。

花会式の声明はまた素晴らしかった。かつて、岡山で拝聴した天台声明は荘厳さで胸を打つものであったが、法相宗のそれはアクションや打楽器を伴い演劇性に富んでいて、終末を剣を持って舞い収めるあたりに、仏悪に対して敢然と闘う姿を垣間見させて、今の世に求められるのは、こうした厳しさを含んだ慈愛ではないかと思わせられたことである。

15分の西大津でのバスの待ち時間に、祖母の命日に供える生菓子を購う。

やっとバスに飛び乗って、袋を膝に置いたとたんに、お菓子がバスの床に転落して散乱。まさかそれを拾って済ませるわけにも行かない。発車間際に飛び降り、スタコラまたスーパーへ。かくして帰宅は40分遅れとなった。ばあさん、「とんだところで、茶々を入れてくれたのは、何事も切羽詰まったことをしちゃいけない」との冥土からのお諭しか。ま、怪我がなかったことを幸いとするか。こうして、山の中から町に出た一日は終わった。長々おつきあいありがとうございました。

平成19年3月7日 改訂

Copyright(C)2000-2008 知的生産の技術研究会 岡山支部 広報 雨坪 All Rights Reserved.