大学時代、広島の下宿で出会ったのが「いのこ」。戸口の前で〈いの子いの子、いの子餅搗いて、繁盛せい、繁盛せい〉と囃しながら才槌(さいづち)のような藁の束を綱で巻き固めたものにそれぞれ荒縄を結んで地面に打ち付ける。ご祝儀のお餅やお菓子をいたたくと、次の家に回っていく。
旧暦10月10日が亥月の亥の日に当たるのでこの行事が行われるようになったらしい。元々中国の俗信に基づいたもので、平安朝ごろから民俗行事になった。本来多産系のイノシシにちなんで、子孫の繁栄と稲の豊穣を予祝した行事で、10日恵比寿なども起源からいえば同じもののようだ。広島は町筋だったから、唱えごとが〈繁盛せい〉になったのだろう。このように、日本人は、万物に神の存在を見(シャーマニズム)、凶悪なものも神として畏敬することで、災いを避ける砦としてその力を利用しようとした。イノシシもたぶん、有史以来作物を荒らす厄介者だったに違いないが、多産というプラス面を「いのこ神」として尊崇することで利用してきたのだろう。
ぼつぼつきょうの本題。景行天皇には、3人の子供がいた。弟が小碓命(おうすのみこと)。父が、兄の大碓(おおうす)命に朝食にでてくるよう誘えといわれたのに、手足をちぎって惨殺するような凶暴さに、父君は恐怖を覚える。ちなみに、当時、神と共に食事をする朝食は祭政一致の重要な政務とみなされたのだ。
身近に置くことに恐怖を覚えた天皇は、熊襲建(くまそたける)の討伐に皇子を派遣する。 16歳の皇子はおばの倭比売(やまとひめ)の衣装で女装して熊襲建に近づき、これを殺す。このとき熊襲建から日本武尊の名を奉られる。出雲建(いずもたける)も偽刀(ぎとう)の計で倒して帰国した皇子に天皇は今度は東の國の荒ぶる神の征伐を命ずる。わが子ながら恐怖を覚える存在とは、不幸な親子なのだ。「天皇は私に早く死ねと思っておられるのか」と嘆きつつ伊勢(いせ)神宮に奉仕する倭比売を訪ね、剣と袋をもらって出発する。
東征では、相模国造(さがみのくにのみやつこ)に野火で焼き殺されようとしたが倭比売から貰った草薙(くさなぎ)の剣で草を薙(な)いで助かる。浦賀水道の神に航行を阻まれたときには、愛する弟橘媛(おとたちばなひめ)が入水して神の怒りを鎮めて死を免れる。
だが、東征の帰途、熱田(あつた)の宮簀姫(みやずひめ)のもとに伊勢の神剣を預け、素手で伊吹(いぶき)山の神に立ち向かった皇子は、出会った伊吹の神である「白いイノシシ」を神の使いと誤認し、神罰の大氷雨(おおひさめ)に打たれて重病にかかる。伊勢の神のご加護でたびたび逃れてきた災難だったが、その守り刀の神剣を恋人の元に置いてくるという軽率な行為によって、ついに故郷近くに辿り着きながら死を迎える。能煩野(のぼの)から大和の国をしのんでうたう〈倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭し美(うるわ)し〉など3首の思国歌(くにしのびうた)は皇子の悲劇性を伝える絶唱である。
ところで、この伊吹山の神とされる「白いイノシシ」とは何であろう。
いまでも新幹線が延着するといえば、原因はきまって名古屋大阪間の伊吹山周辺にある。私の住まう琵琶湖西岸からはるかに眺められる伊吹山(標高1379m)は、いつも頭に雪をかぶっている。伝説では「白いイノシシ」は大蛇だとされるが、私は気象と地形からいって、伊吹颪(おろし)に伴う吹雪だと思う。自然の脅威を「荒ぶる神」として恐れる人々の思いが古事記の中に取り入れられ、ヤマトタケルの「白いイノシシ」になったにちがいない。
古事記には、もう一か所「赤いイノシシ」が登場する。詳細は省くが、八上姫という絶世の美人をめぐって因幡の神々が争奪戦を演じる。姫はやさしいオオクニヌシノミコトに傾くが、兄神達はおだやかでない。「この山に赤いのししがいるので、追い落とすから下で受け止めよ」と命ずる。赤いのししとは真っ赤に焼いた大岩のことだった。人のいいオオクニヌシノミコトは、焼け岩を両手で受け止め、焼け死んでしまう。しかし、ここで神話は悲劇では終わらない。姫の哀願で親神がくれた素晴らしい治療薬・貝薬のお蔭で甦ったという。めでたしめでたしの話がある。災いを象徴するこうした古代のイノシシに対して、中世の平家物語では、「猪武者」が登場するが、ながくなるのでこの辺で今回は止めとしよう。
平成19年1月25日 記